日本大学アメフト部の反則事件は、監督とコーチの関東学生アメリカンフットボール連盟による除名処分をもって一通りの決着を見た形となった。「つぶしてこい」という指示が「負傷させてこい」という意味であったかどうか?、などというあいまいなことではなく、精神的に追い込まれたこの宮川選手に対して、特定の選手に怪我をさせよという風に解釈できる旨の指示がリアルに出ており、学生はそれを拒否できるような状況にはなかったことが、はっきりと記者会見で発表された。
この内田監督という人は大学の人事権も握る理事の一人であり、意見を言ったり、逆らえる人がいなかったらしい。事情が詳らかになった今、なぜ此度のような事態になったのかについては、なんとなく、「ああ、そうか」と納得がいく。なんでかというと、今の日本は、似たような事例のオンパレードだからである。
長期デフレで、疲弊した日本の組織は、あちこちにほころびが出始めておりその現象はリーマンショック以来顕著になっているというのに、「成長」の掛け声で相も変わらず同じやり方を続けようと頑張っている。そしてますます疲弊していくのだ。
伸びないのに伸びようとする、勝てないのに勝とうとする。弱いのに強がる。
これらは、すべて組織の方針だから皆これに従っているのだ。みんな頑張ればなんとかなると思っている。頑張れば救われるんだという指示には、誰も異を唱えられないではないか。だって、反論すれば「ナマケモノ」になるから。
みんな感づいていると思うのだけど、筆者も、デフレ脱却とかアベノミクスとか、あんまり効果はない思っている。政府が次々と打ち出す様々な改革案は無駄とは言わないが、「これによって少子高齢化がストップしますよ、経済右肩上がりになりますよ」とは、政府も学者も一言も言っていないではないか。
みんな勘違いしているのは、いま社会は少子高齢化時代という氷河期にむかって準備をするべき時であって、高度成長期やバブルをもう一度やろうとする時ではないということだ。頑張るのにも方向性があるのだ。
時代は変わり、それにつれて人間は進化してきた。一昔前の成功体験をもう一度繰り返そうとするのは進化ではない。ダーウィンの進化論のように最後に生き残るのは、弱いものを食った「食物連鎖の頂点にある者」ではなく、
「地球環境の変化に対応した者」だけなのだ。
変化に対応できず、疲弊した組織が増えている。そのような組織からは「やっても無駄」「できないであろう」指示が多くなる。それだけならまだよいが、「社会通念上やってはいけないこと」が、責任を取りたくないトップからあいまいな指示として出されると、疲弊した組織は悪いとわかっていながら、
「忖度」して、
それをやってしまうのだ。
ここのところ、大企業や政府機関、これまで有名で強かったところからまずはそういう現象が出始めた。変化に対応できずにいる大きな組織はまだまだある。
予言してもよい。「忖度事件」はまだまだ連続するだろう。日本は変化への対応が明らかに遅れているから。これはなんだか戦前の状況に似ているなとも思う。忖度は「空気感」だ。日本人は「空気感」に逆らえない。先の戦争はそうやって起こった。また戦争になるとは言わないが、社会の病理としては同じではないか。
はやく変化に対応して進化する方向へと舵を切ってほしい。
コメント