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自分のウチで最期を迎えたい ~とはいうけど、できますか?~

投稿日:2018年9月15日 更新日:

このブログでも何度も書いているとおり、今後日本の人口は減っていくことがわかっている。わかっているので、医療介護の分野において国の政策は着々と考えられてきている。

死亡する人の数も今後の20年くらいは増えていくことが予想されており、2040年がピークだといわれている。厚生労働省の資料によれば2040年は年間166万人もの人が亡くなることが予想されている。ちなみに10年前くらいは年間100万人そこそこだったから、40年で死ぬ人が1.6倍増える計算になる。

これらの人が全員、長期入院したあげく病院のベッドで亡くなるとなれば、入院費の保険支出だけで日本の医療は持たなくなるので、国は在宅医療、在宅での看取りを推し進めようとしているところだ。

日本は国民皆保険制度のおかげで、国民の誰もが安い自己負担で、医療の恩恵にあずかることができ、同時に高齢化が進行してきた。結果、世界でも平均寿命の高い長寿国といわれるようになった。

そんな日本の人々のほとんど(78.4% 2009年のデータ:厚生労働省)は病院で亡くなっているという現実がある。

こうした人たちもなるべくなら施設や自宅で看取れるように、在宅医療や訪問看護体制を整えていく必要があることが叫ばれ、自宅や施設で療養しながら最期を迎えるというケースが少しづつだが増えていっている。

さて、今日問題にしたいのは、最期を迎える本人、そしてそれを看取ることになるであろう家族には、「準備」ができているのだろうかということだ。

「準備」とは、ベッドや医療機器や痛みや苦痛を緩和するための薬の用意、介護するご家族の仕事の都合などのことを言っているのではない。

死を受け入れる心の準備のことだ。

たとえば、心の準備なくして自宅で介護をはじめる。容体はよくなったり、悪かったりする。介護する家族の心の中には、元気だったころのその人の記憶があって、「近い将来良くなってまたあのときのように一緒に・・・」と思ってしまう。

そういうことを思いながら、毎日過ごすうち、ある日容体が急変する。とても苦しそう。意識が遠のいていく。

あわてる。するとここでおもわず救急車を呼んでしまうのだ。

救急搬送されれば、心臓マッサージや人工呼吸、いろんな機械をつなげたりして延命措置が始まってしまう。それが救急救命の仕事だからだ。

体中にいろんな管をつけ、「人工的に何とか生きている状態」になって、また病院に入院となる。これまで自宅でやってきたことはいったい何だったのかということにもなりかねない。

また、病院についたときすでに死亡していたら、法的な問題まで発生し警察が介入せざるを得ない事態にもなりかねないのだ。

こうした家族の反応は、看取りの「準備」が完全にできていなかったことに起因している。

「死ぬ」ということは、最も最悪のことであって、絶対に避けるべきことだ・・という価値観がある。多くの人は心の中の基本的な考え方としてそう思っているのではないか。それを非難することなど出来はしないのだが、

一方で、「人は必ずいつか死ぬ」ということも、頭ではわかっているはずだ。

ところが、最期の時を迎え、慌てて救急車を呼んでしまうことは、そうした、「死を否定し、遠ざける価値観」から行われてしまう。

逆に、「お迎えが来た」という言葉に代表されるような、最期がくるのを達観した見方でいれば、いま、その人にとって最も良い措置は何かということを考えるようになる。

「命のある事、生きること」が最優先ではなくて、今、何をするのが最も良いのか、望ましい最期とは何なのかについて考えていろいろなことをするようになるから、先ほどのような場合は、主治医に連絡をして、来てもらって、苦しさを取り除いてもらい、経過を観察してもらう。そして静かに、看取る。なつかしい良い思い出を残して。

人は何のために生きるのかということについて、明確に答えを持っている人はいないだろう。逆に言えば100人いれば100通りの答えがあるといえるかもしれない。

でもその100人と、その家族は「お迎えが来た」といえるかというと、たぶん言えない。

だから、最期はどうするのかについては、まだ元気なうちに基本的なことを決めておくのが良いともいわれている。ツールとして終末期医療の事前指示書と呼ばれるものがある。 意識がないときや正常な判断することができなくなった時、誰を代理にするか、望む医療処置、望まない医療処置などを、あらかじめ意思表示しておくのである。最近だんだんと普及してきたという。

前回のブログにも書いたが、人はただ一人で生まれ一人で死ぬ運命なのに、お金や欲望にすがり、死から逃げてばかり。

死と向き合い、「生きるとは何か」について考えようとしない、日常の忙しさにかまけて忘れようとする人のなんと多いことか。

ひょっとすると、日本の医療費問題はこうした「人間の愚かさ」からきているのかもしれない。

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