東京都の小池知事が9月1日に都立横網町公園(東京都墨田区)で開催される予定の「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式」に、都知事名の追悼文を送らない方針であることを発表し議論が再燃している。
かの保守の権化とも思われた石原元都知事ですら毎年追悼文を贈っていたのに「なんで?」とだれもが思うが、これに対し、小池知事は関東大震災のあった9月1日と東京大空襲(1945年)があった3月10日に横網町公園内の東京都慰霊堂で毎年営まれる「遭難者慰霊大法要」に出席することを挙げて、
「これまでも都知事として関東大震災で犠牲となられた全ての方々への追悼の意を表し、全ての方々への慰霊を行なってきた」
「今回は全ての方々への法要を行いたいという意味から、特別な形での追悼文提出を控えた」と述べた。
■ 追悼文を出さないこの対応について考える
納得できるようなできないようなこの対応、「すべての人たちを追悼したいから、個別特別な形での追悼文提出は差し控えたい」ということならば、東京都はこれまで虐殺されたといわれる朝鮮人に対して「特別に」追悼文を出してきたのだということになり、それをやめますよという意思表示になる。
都知事の追悼文の提出には、この事件は人間の集団による意図的な殺人事件であり、この犠牲者は天災である震災の犠牲者とは別に追悼すべきであるという考えがあったはず。
いっぽう、自称保守系の言論を述べ立てる人たちは、朝鮮人虐殺事件は日本の自虐史観を助長するウソ情報であるとする情報をばらまいている。此度追悼文を書かないということは東京都知事がこういう方たちに組することとなる行動をとったとみられてもしょうがないのではないか。
■ その当時の朝鮮人をめぐる状況
関東大震災(1923年:大正12年)当時、日本が統治していた朝鮮半島では、三・一独立運動(1919年)が起こってそれを契機に大規模な暴動にまで発展、次々と朝鮮半島各地で日本の諸機関が襲われ、その鎮圧のため多くの人命が失われた悲惨な事件のわずか数年後。当時の新聞各紙は「朝鮮各地で暴動」などと独立運動に対し批判的に書き立てたため、人々の記憶も新しかったと思われる。
ちょうどこのころ働き先を求めて朝鮮南部から日本にわたってくる人が急増していた。朝鮮から来た人たちが周辺に増えていくにつけ、東京では「朝鮮人は何をしでかすかわからない」という得体のしれない恐れがあったことは想像に難くない。警察や軍もそのようなテロ発生を想定し対処の準備をしていたという資料もある。
そこに襲った関東大震災。大火事は朝鮮人が爆弾を投げたからだ、とか井戸に毒を入れたとかいうデマがあふれ、各地で結成された自警団のみならず、警察、軍隊までもが肉親の安否を尋ね歩く人を質問して朝鮮人とみるや、とらえて殺していたというのだ。
歴史的背景や、研究者の書いたものによるとこれは事実であると認定せざるを得ず、これは日本史の研究者の間でも定説となっている。
なんだか現代の欧米におけるイスラム社会に対して抱くであろう得体のしれないテロへの恐怖のような状況に似ている。
■ 公人は歴史を修正すべきではない
そもそも、今回の小池知事の追悼文見送りの契機となったと目されているのが、日本会議のメンバーで筋金入りの右派である自民党の古賀俊昭都議による3月にあった一般質問だといわれている。件の「朝鮮人犠牲者追悼碑」に「誤った策動と流言飛語のため六千余名に上る朝鮮人がとうとい生命を奪われました」とあること、追悼式の主催団体の案内文に虐殺の犠牲者数が「6000余名」と書かれていることについて「根拠が希薄な数」などと問題視したものだ。この質問に対し小池知事は「毎年慣例的に送付してきた。今後については私自身がよく目を通した上で適切に判断する」と答弁して見直しを示唆していたのである。
いろんな資料を紐解けば、当時震災後の混乱の中で殺害された朝鮮人は確かにいたもののその総数までは諸説あってはっきりと把握されていない。
しかしその数が正確でないことを理由として全体を事実でないかのように取り扱うのはどうだろう。細かい事の真偽はどうあれ歴史学上定説とされてきたことは公人も認めるべきではないか。歴史研究によって新事実が判明しそれが証明されるまでは定説は尊重されるべきである。わずかな疑義だけを理由に定説を認めないという態度は東京都知事として過去における都民の悲しい事件の犠牲者を慰霊する立場より彼女の属する「日本会議」的意図を尊重しており、自らの今後の政治的立場のため右翼的に偏向した言動ととらえられかねない。
■ 自虐史観への反動
かといって、一方的に日本は悪いことをしてきたという自虐史観を作り上げてきた教育に対する反動も大きいのが事実。冷戦終結までの間、日本人であることに対する誇りをも失わしめかねないこのような教育があったことは確かに良くなかった。
国際社会に出ていくのに「自分が日本人であることが恥ずかしい」「日の丸はカッコ悪い」「君が代は歌わない方がいい」と思うような人材を育ててきたのに等しかった。
外国での自己紹介はまずは「自分は日本人です」といわねばならない。このときにどんな気持ちでそれを言えるか、とても大事なことだ。
自称保守・ネトウヨと呼ばれる人たちの歴史事実歪曲キャンペーンとは、中国・韓国から「謝れ」という圧力がかかってくるから逆切れして必死に言い訳をしていることに他ならないのではないか。そう考えると逆に情けない実情に思えてくる。
■ 歴史に道徳をもちこむな
歴史認識云々で論争になるとき必ずどちらが悪いかという道徳的な問題が持ち込まれ日本に謝罪が要求される事態となる。そもそも歴史には道徳的な考え方を持ち込むべきではなくてしっかりとした事実を踏まえて、学んだうえで未来に生かすのが筋ではないだろうか?。
もし歴史に道徳が持ち込まれ一緒に論じられるとしたら日本と中国・韓国だけの問題ではなくなり世界中で謝罪と怒りの嵐になるのではないかと思うのだ。大英帝国なんかすごいことになるし、アメリカや黒人奴隷を売買していた国の人たちは謝らなくていいのか。ヒロシマ・ナガサキの原爆は非人道的な兵器。使ったアメリカは謝らんのか、みたいな話になる。何回謝っても歴史的事実は消えない。むなしい非難合戦は永遠に続く。これは誰のためになるのだろう。そんなに賠償してほしいのかとさもしい根性を疑いたくなる。
事実は事実として認める。尊い犠牲には心からの慰霊をし、それを踏まえてこれからはこうしようと未来へ向けて過去に学ぶ姿勢を持つ。これでいいと思うのだ。
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