森友問題にみる日本の危機 ~組織擁護のため犠牲になる個人が未来をつぶす~

 ついに自殺者が出た森友問題。この件が理由ではないが佐川長官は辞職した。
自殺した当人のことは知らないふうのことを言っていたがそんなはずはないだろう。
この件で直接話をしたことだってあるはずだ。こんな大問題なのに関係者を知らないはずがないだろう。遺書らしきものがあったというのも怪しいと思う。
今時暴露したければ、ネットに書くのではないか?。ま、すぐに消される可能性もあるが。

話は変わるが、平均寿命は男性の方が短い。なんでかというと、男性は退職して会社に行かなくなると人と話さなくなるから、というのが大筋の見方だ。

こんな本もあるくらい。友達が多いと寿命も延びるという。女性の場合は誰とでもよく話をするからよいけれども、これまで何十年もの間会社の人としか話をしたことのない人はいまさら隣の人と話すこともなく、退職していくところがなくなるとやることもなくなって困ってしまいだんだんひきこもるようになる人も多いのではないか。むろん活発に生き生きとして好きなことを始める人もいる。しかし真面目に勤めて、朝早くから夜遅くまで会社にいて、サービス残業を美徳としてきたおじさんたちにとって、いざ退職してみれば
「一体俺は何者なのか」

というふうになってしまう。こうして、メタボリック症候群に「孤独」という要素が加わりますます健康ではなくなるのだ。

これからの高齢化社会を迎えるにあたって最も課題になるのは、「いかに介護するか」ではなく「いかに健康を維持するか」「いかに自立させるか」である。でないと社会保障費が余計にかさむからね。この課題と、これまで身を粉にして人生を会社にささげてきた、「近所の人とつながれないおじさん」だちの孤独を解消しなきゃならない。
これ、国家的な課題ではなかろうか?

これだけ情報化社会になった現代でも、組織のために自己を犠牲にする文化は脈々と受け継がれているようだ。ただ自己犠牲の対価はこの人たちの給料と退職金では安すぎる。
なぜそう言えるか。こうして長年の組織のための自己犠牲の長年の末に健康を損なった高齢者男性の「孤独関連疾患」が国家に社会保障費の支出を強制するからだ。

おじさんたち、組織のために自己犠牲をした挙句、病んで社会に放出されている現状がある。これを「自己責任」ですましていいのかと思うのだが・・・。

財務省職員の自殺事件に組織のための自己犠牲を美徳とする日本の風潮を思い出した。
佐川長官が内閣体制維持のために嘘をついていたことは明らかであり、もはやこの人自分が嘘をついているのかどうかすらわからないのではないか。記者会見でどっかの記者が、
「忖度はあったんですか?」と聞くと。佐川さんは、
「忖度って何ですか?、わたくしは意味が分かりません」

と言っていた。

このやりとりから、たぶんこの人、嘘と空想と現実の区別がつかなくなってるね。組織を守ることが第一義であり、そのためなら全部犠牲にしてもいいんだろうね。

愚かなり。こんな佐川さんは長生きできるのかなあ。

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